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1.
船はようやく港に近づいてきた。それまで潮風を吸って気持ちよく膨らんでいた
帆が緩やかにしぼみはじめ、次から次へと水夫たちの手で手際よく降ろされてゆく
。船の減速につれて竜骨がギィィィィと鈍く長く呻くようにきしり始めた。
テュエステースは港に着くのが待ちきれず、故郷の港を眺めるため、甲板に駆け
上がった。広大な港のそこここに、懐かしい形の船がいくつも停泊している。まる
で午睡でもとっているかのように、マストをものうげに前後に揺らしながら。
ああやはりここが一番だ。第一海の色だって、クレタ島のまわりとは大違いじゃ
ないか。あそこの海は、やけに白い泡が多くて、いまにも沸騰しそうな不穏な雰囲
気を醸し出していた。こんなに静かな、美しい海とは到底比べものにならない。
すべてのものが、今のテュエステースには限りない恩寵のように思われた。故郷
とは、やはり何物にもかえがたい。とくに、あの悪夢のようなクノーソスの都から
帰ってきたばかりの身にとっては。
クノーソスのミノス王のもとへ、人身御供を献上しに行くのはこれで何度目だろ
うか。三年に一度だから三度目か。そろそろ慣れてもいいはずなのに、嫌悪感は増
す一方だ。あの非合理と迷信の都には我慢がならない。あんな都が、そしてあんな
文化がミュケーナイのほとんどの民の崇拝の的とは不思議なものだ。人は自分にな
いものにあこがれるというが、それにしてもこれは度がすぎてやしないか。確かに
都の壮麗さにおいて、わがミュケーナイは到底クノーソスの敵ではない。俺だって
圧倒される。何しろ、王の弟のこの俺にしてからが、クノーソスでは単なる臣民扱
いなんだからな。しかしすべてがこけ脅かしのきらびやかさじゃないか…
2.
港には、テュエステースを出迎える一行がすでに待機していた。その姿がテュエ
ステースに王者の一族としての自覚を瞬時に促した。彼は王族の一員としての威儀
を急いで取りつくろって一同をねぎらい、馬車に乗りこんだ。
馬車は平坦な道をゆるやかに進んでいく。やがて丈の高い糸杉がそこかしこに目
立つようになり、暖かい微風に乗って、樹脂のふくよかな香りがあたりに満ち始め
る。彼方にはなだらかに弧を描く城壁が見えてきた。故郷ミュケーナイに到着した
のだ。
「王がお待ちかねでございます。」城に着くや否やテュエステースは家臣から報告
を受けた。
「兄上が? あいかわらずせっかちな男だな。一休みくらいさせてくれよ。旅装を
解く時間さえもないのかい?」
「テュエステース様、お言葉を返すようですが、口のきき方には気を付けなされ。
御兄弟といえども一国の王。ともかく一刻も早くとのお達しでございます。」
しかたなくテュエステースはそのまま王の謁見の間に向かった。謁見の間は広大
な部屋で、正面の一番奥に王の座が一段と高く、辺りを睥睨するような格好で据え
付けられている
王座の足元、そのすぐ手前には祭壇がしつらえられており、無数のランプの炎に
囲まれて青銅の牡牛がおごそかに安置されていた。この偶像は王がクノーソスのミ
ーノース王から直々に賜ったものだ。王座の両脇には、猛禽の翼のような形で、一
族の者や主だった家臣たちの座がしつらえられていたが、今日は誰も席にはついて
いなかった。
王アトレウスは既に王座についていた。テュエステースはためらうことなく、王
座のすぐ脇、いつも自分の座る席にどっかと腰をおろすと、首をひねって兄に話し
かけた。片足を高く上げ、牡牛の偶像を爪先で指し示して、
「兄上、あんなものいつまで麗々しく飾っとくんですか。家来達のいい笑い物です
よ」
アトレウスは渋面を作りながら答えた。「優れた文化は輸入すべきだ。おまえだっ
て、クノーソスはわがミュケーナイに比べて数段進んだ文化を持っていることは否
定せんだろう。」
「だったら青銅の精製法とか、築城術とかそういうものだけ取り入れればいいでし
ょう。僕はどうもああいうアジア的な非合理には我慢ができない。われらのギリシ
ア精神はどこへいったのですか。」
「いや文化というものは青銅とか、そんな表層のレベルだけ取り入れてもどうにも
ならん、おまえは若いからまだ分かるまいが… おまえを呼んだのはそんなことを
議論するためではない。」
「だったら何なんです」
「お前は「くだん」の予言を聞いたそうだな。」
(つづく)
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