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2018年のメロデス

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2018年 1月 6日(土)16時57分24秒
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メロス melos というのは、古代ギリシア語で 「音楽・旋律」という
意味だったと思う。メロデスはその複数形だと思うが、違っているか
も知れない。
「愛天使伝説ウエディングピーチ」のオープニングでは、最後にウェ
ディング・ベルが鳴り響くが、鐘の音は、人の死のときにもあると言
える。新しい年を迎えると、一歩地獄に近づくのか、一歩極楽に近づ
くのか定かでないが、地獄か極楽かは別に、死に近づくことは間違い
がない。

死は必ずしもネガティヴなものとは限らないが、死に対する恐怖は、
寧ろ、意識は持っているのが自然だと言える。過去に何十億人、何百
億人もの人がすでに死の向こうに消えたのが事実としても、「私」と
いう個的意識と自我は、同じものが何十億もあるわけではなく、それ
どころか、何十でさえない。「私」はただ一つしかない。これは自我
にとって譲ることのできない事実である。

しかし、死をめぐるこのようなスペキュレーション(あえてピロソピ
アとは云わないとして)は、同じ論理あるいは推論水準で、「私」に
は死は訪れないという結果も導き出せる。「死」というのは、常に、
他者の死で、わたしが観察する、あるいはそのような現象を知識で知
るものでしかない。「私自身の死」は、わたしには経験したり、知識
として知ることはできない。

経験や認識の主体であるはずの「私」の意識機能の停止あるいは消散
を「私の死」は意味するはずだからで、そうすると、エピクーロス派
の哲学あるいは神学が語るように、「私には死はない」ということに
なる。三十数年前、その言葉を述べた人は、考えると、それから十年
も生きていなかったように思う。エピクーロス的な死の不在の説明を
聞いたとき、それは言葉の遊びか誤魔化しのように思った。

しかし、三十年以上が経過してみると、エピクーロス的な言葉は、別
の意味を持っているのではないかと思えた。エピクーロス的な「死の
不在テーゼ」は、「私が生きているとき、死は私にない。私が死んだ
とき、自己の死を認識する私がいない」それ故に、「死は私には存在
しない」という言表である。「私の死」を「死の恐怖」と置き換えて
もよい。

死んだ人はどこに行ったのだろうか、と疑問に思うこともある。意識
は、構造体であり、死とはこの構造が崩れ消散することであれば、死
んだ人はどこかに消えたのではなく、構造が消散して無となったのだ
と云うのが正しいのかも知れない。私も、死を通過して、意識や自我
は崩れ無へと消散するのか。エピクーロスのテーゼをこのように解釈
すると、やはり死は恐ろしいことになる。無への消散とは、永遠にわ
たる空であり、無ではないのか。目覚めることが決してない眠りに入っ
て行くことは、恐怖ではないのか。

此世的な思考だと、個々人が何時死ぬのか不明であるが、十万人の統
計母数をとって数えれば、毎年、数千人ぐらいの人が死んでいる。一
年時間が経過すれば、統計的な積算では、個人の平均余命は、一年短
くなる。別に新年を迎えたから、一歩死に近づくのではなく、通常の
一日の経過であっても、やはり統計的には、死に一歩近づいて行くこ
とになる。誕生したときから死への歩みは始まっているとも言える。

エピクーロスのテーゼは別の解釈もありえる。死を恐怖しても、懼れ
ることなく、愁いなく日々を過ごしていても、何時か、死の境界を通
過してしまうときが来る。私は「不死」で「死はない」と確信するこ
ともあるかも知れないが、不死だと確信したまま、死の境界を通過し
ていることがある。つまり、死を懼れても、懼れなくとも、死は避け
られないと信じても、不死だと確信しても、何時のまにか、死の境界
を通過している事態が起こりえるし、起こることが必然のようにも思
える。

それでは、死は避けることのできない運命・定業なのか。「私は死な
ないという確信」は、死は運命ではないということを意味する。つま
り、意識の自己認識と自我である魂の自覚においては、「現実」は、
客観的ではありえない。それは主観的現象となる。毎日、何千人、何
万人、何十万人の人が死んでいるというのは、主観的な現象事実では
ない。客観性を仮定した上での主観的な空想だとも言える。そして、
奇妙なことは、そう考えていて、何時しか死の境界を越えているだろ
うと云うことである。私に死はないが、私は死んでいることになる。

エピクーロス派のテーゼの「別の解釈」というのは、このような見方
であり、死の認識である。死んだときは、意識がないので「死は私に
はない」のではなく、死と生の境界は厳密には主観性にあり、死の境
界を通過して、死んでいることになるというのは、客観的な措定に過
ぎない。ドクサであるということになる。

これが、どう魂の不死だとか、主観的には死はないというようなテー
ゼに繋がるのか、これ自体が主観的な認知になる。これまで何百億の
人が死んで行った。だから死を恐れても仕方ないというのは、客観性
を前提にしている。そのような信仰もあると思える。しかし、主観的
には「死はない」というのも事実である。死なないが、何時かいなく
なっている。明日かも知れないし、十年後かも知れない。椅子に座っ
て考え事をしていると、何時の間にか眠っていて、ふと、眠っていた
のかと気付くことがあるが、死とは、何時のまにか死んでいて、ふと
気付くことがあるのかないのか分からない現象である。

これを此世的、物質的、あるいは客観的に考えると、死んだ後で、肉
体は崩壊し、大体普通の場合は、火葬場で灰と骨になり、やがて、構
造は消散し、無となるということになる。しかし、主観的な認識世界
においては、これは、他者の死の後で観察されることで、「私」は火
葬場で灰になるのか、どこかの山奥で、野犬などに食べられて、肉体
は分解して土に還るのか、それは夢だとも言える。

エピクーロス派のテーゼの別解釈という表現ではカバーできない、色
々な可能性が残っている。死は休息だと言えるし、救いだとも言える。
死の向こうの人を誰も追うことはできないし、完全な逃走は死によっ
て可能となる。これは自殺学の本に書いてある、自殺の動機の一つで
あるが、主観的には真理だと云わざるを得ない。いったん死ねば、二
度と意識が戻ることはない、「私」は無に消散するのだというのは、
客観的な思考で、空想だとも云える。

ベルグソンは、精神と肉体にはずれがあり、一致していない、そこに
精神の不死性あるいは肉体に対する独立性があると云う考えだったと
聞いたが、実際はどうなのだろうか、とベルグソンを研究していた人
に、昔尋ねたことがある。良く分からない、というのが返答だった。
「死」については、いま考えても仕方ないだろう。そのうち死ねば、
死後の世界とはどういうものか、あるのかないのかも分かるので、死
ぬのを待てばよいと、その人は云っていた。

人は必ず死ぬと考えても、私は永遠に生きると考えても、あるいは死
を恐れても、死を心待ちにしても、いずれにせよ、主観的には死は存
在しないし、死の境界は何時かは知れないが、やがて通過している。

こころを安らかに持つことしかないであろうと思う。
これを、2018年のはじまりのメロデスとして記す。


_ ノイス・フォン・ストラファーン

 
 
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