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日本の文化と西欧キリスト教文化

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月14日(木)00時07分14秒
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ところで、先に引用した、若瑪メルは、元々の書き出しの考え
では、小松の作品の「なにゆえか、父よ」というときの「父」
は、超越性とか、超越精神的な「父」ではなく、具体的な「父
親」のことになっている。

作中の超精神アイは、そうか、二人は親子だったのだと呟く。
自分に取り込んだ二つのサブ精神が、肉体的には親子だったと
気付くという話です。

「なにゆえか、父よ」と叫ぶと、その父が答える。
これは、いかにも日本の文化の思想的発想だし、マルクシズム
の影響または、そういう時代の思想背景が感じられる。

それに対し、こういう問いかけの元とも言える、西欧キリスト
教文化や、古代ギリシア哲学やユダヤ教の神などでは、「父」
は答えない。あるいは、答えるが、それは、もっと異質な思想
が背景にある。

ここから、小松左京氏と云う作家の、時代的制約あるいは、時
代精神が垣間見える、というような話を書こうとしていたが、
遠藤周作の「沈黙する神」とか、その元のキリスト教文化の超
越者概念、神の不在における実存主義……などと考えて行くと、
次々に、時代や思想のオリジンが過去に遡って行ったというの
が、先の文書の破綻の原因です。

そういうことまで踏み込む必要はなかった。もっと簡単な図式
で、問いに答える父と、答えない父、とかいう程度の話にして
おくべきだった。

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