teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


年間1500枚!

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2018年 1月22日(月)21時29分25秒
返信・引用 編集済
   何時何を何枚書いたか、数年前の記憶とて怪しくて。ファイルの更新日時も「脱稿」「改稿」「どこぞへの応募」とかで上書きしてるので信用できなくて。時系列と整合させる試みを始めているのですが。記憶に新しい2017年は……(有効数字2桁で)
僕はパパの……170枚
ママと歩む……300枚
非国民の烙……530枚
姪奴と甥奴……530枚 厳密には最終部分2018年01月
年間1500枚です。空前です。絶後にはしたくないです。
SM小説を書きに書いたり(since1985)8200枚。
文庫本1冊400枚なら、せいぜい20冊ですか。
ワンマン同人活動としてなら、ちょっとしたものです。
プロパーを気取るには、まだまだ。
通算1万枚到達時にどうなっているか。
現状エクスポレイトすれば、年間20諭吉?
50諭吉にしてえなあ。と思ふので蟻mass。

 現在は、他サイトと同一版で出したKDPの増補改訂版Unlimited狙いの作業中。「少女博徒」と「ピンク海女」と「偽りの殉難」は作業完了して(表紙絵も一新)。現在は「足入れ婚」編集中。2月第1週までには「幻夢」も「1/16」も「大正弄瞞」も「全裸突撃」もやっつけて。爾後ロリマゾ書きながら時給1500円以上フルタイムを探しながら……最悪4月から180日間は樋口一葉/日です。ライトセーバーを振る境遇にはなりたくないです。
 
 

新年に乾杯

 投稿者:やむ  投稿日:2018年 1月15日(月)21時02分25秒
返信・引用
  1月21日阪急淡路駅西口前午後4時

お待ちしております。

 

2018年のメロデス

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2018年 1月 6日(土)16時57分24秒
返信・引用
 
メロス melos というのは、古代ギリシア語で 「音楽・旋律」という
意味だったと思う。メロデスはその複数形だと思うが、違っているか
も知れない。
「愛天使伝説ウエディングピーチ」のオープニングでは、最後にウェ
ディング・ベルが鳴り響くが、鐘の音は、人の死のときにもあると言
える。新しい年を迎えると、一歩地獄に近づくのか、一歩極楽に近づ
くのか定かでないが、地獄か極楽かは別に、死に近づくことは間違い
がない。

死は必ずしもネガティヴなものとは限らないが、死に対する恐怖は、
寧ろ、意識は持っているのが自然だと言える。過去に何十億人、何百
億人もの人がすでに死の向こうに消えたのが事実としても、「私」と
いう個的意識と自我は、同じものが何十億もあるわけではなく、それ
どころか、何十でさえない。「私」はただ一つしかない。これは自我
にとって譲ることのできない事実である。

しかし、死をめぐるこのようなスペキュレーション(あえてピロソピ
アとは云わないとして)は、同じ論理あるいは推論水準で、「私」に
は死は訪れないという結果も導き出せる。「死」というのは、常に、
他者の死で、わたしが観察する、あるいはそのような現象を知識で知
るものでしかない。「私自身の死」は、わたしには経験したり、知識
として知ることはできない。

経験や認識の主体であるはずの「私」の意識機能の停止あるいは消散
を「私の死」は意味するはずだからで、そうすると、エピクーロス派
の哲学あるいは神学が語るように、「私には死はない」ということに
なる。三十数年前、その言葉を述べた人は、考えると、それから十年
も生きていなかったように思う。エピクーロス的な死の不在の説明を
聞いたとき、それは言葉の遊びか誤魔化しのように思った。

しかし、三十年以上が経過してみると、エピクーロス的な言葉は、別
の意味を持っているのではないかと思えた。エピクーロス的な「死の
不在テーゼ」は、「私が生きているとき、死は私にない。私が死んだ
とき、自己の死を認識する私がいない」それ故に、「死は私には存在
しない」という言表である。「私の死」を「死の恐怖」と置き換えて
もよい。

死んだ人はどこに行ったのだろうか、と疑問に思うこともある。意識
は、構造体であり、死とはこの構造が崩れ消散することであれば、死
んだ人はどこかに消えたのではなく、構造が消散して無となったのだ
と云うのが正しいのかも知れない。私も、死を通過して、意識や自我
は崩れ無へと消散するのか。エピクーロスのテーゼをこのように解釈
すると、やはり死は恐ろしいことになる。無への消散とは、永遠にわ
たる空であり、無ではないのか。目覚めることが決してない眠りに入っ
て行くことは、恐怖ではないのか。

此世的な思考だと、個々人が何時死ぬのか不明であるが、十万人の統
計母数をとって数えれば、毎年、数千人ぐらいの人が死んでいる。一
年時間が経過すれば、統計的な積算では、個人の平均余命は、一年短
くなる。別に新年を迎えたから、一歩死に近づくのではなく、通常の
一日の経過であっても、やはり統計的には、死に一歩近づいて行くこ
とになる。誕生したときから死への歩みは始まっているとも言える。

エピクーロスのテーゼは別の解釈もありえる。死を恐怖しても、懼れ
ることなく、愁いなく日々を過ごしていても、何時か、死の境界を通
過してしまうときが来る。私は「不死」で「死はない」と確信するこ
ともあるかも知れないが、不死だと確信したまま、死の境界を通過し
ていることがある。つまり、死を懼れても、懼れなくとも、死は避け
られないと信じても、不死だと確信しても、何時のまにか、死の境界
を通過している事態が起こりえるし、起こることが必然のようにも思
える。

それでは、死は避けることのできない運命・定業なのか。「私は死な
ないという確信」は、死は運命ではないということを意味する。つま
り、意識の自己認識と自我である魂の自覚においては、「現実」は、
客観的ではありえない。それは主観的現象となる。毎日、何千人、何
万人、何十万人の人が死んでいるというのは、主観的な現象事実では
ない。客観性を仮定した上での主観的な空想だとも言える。そして、
奇妙なことは、そう考えていて、何時しか死の境界を越えているだろ
うと云うことである。私に死はないが、私は死んでいることになる。

エピクーロス派のテーゼの「別の解釈」というのは、このような見方
であり、死の認識である。死んだときは、意識がないので「死は私に
はない」のではなく、死と生の境界は厳密には主観性にあり、死の境
界を通過して、死んでいることになるというのは、客観的な措定に過
ぎない。ドクサであるということになる。

これが、どう魂の不死だとか、主観的には死はないというようなテー
ゼに繋がるのか、これ自体が主観的な認知になる。これまで何百億の
人が死んで行った。だから死を恐れても仕方ないというのは、客観性
を前提にしている。そのような信仰もあると思える。しかし、主観的
には「死はない」というのも事実である。死なないが、何時かいなく
なっている。明日かも知れないし、十年後かも知れない。椅子に座っ
て考え事をしていると、何時の間にか眠っていて、ふと、眠っていた
のかと気付くことがあるが、死とは、何時のまにか死んでいて、ふと
気付くことがあるのかないのか分からない現象である。

これを此世的、物質的、あるいは客観的に考えると、死んだ後で、肉
体は崩壊し、大体普通の場合は、火葬場で灰と骨になり、やがて、構
造は消散し、無となるということになる。しかし、主観的な認識世界
においては、これは、他者の死の後で観察されることで、「私」は火
葬場で灰になるのか、どこかの山奥で、野犬などに食べられて、肉体
は分解して土に還るのか、それは夢だとも言える。

エピクーロス派のテーゼの別解釈という表現ではカバーできない、色
々な可能性が残っている。死は休息だと言えるし、救いだとも言える。
死の向こうの人を誰も追うことはできないし、完全な逃走は死によっ
て可能となる。これは自殺学の本に書いてある、自殺の動機の一つで
あるが、主観的には真理だと云わざるを得ない。いったん死ねば、二
度と意識が戻ることはない、「私」は無に消散するのだというのは、
客観的な思考で、空想だとも云える。

ベルグソンは、精神と肉体にはずれがあり、一致していない、そこに
精神の不死性あるいは肉体に対する独立性があると云う考えだったと
聞いたが、実際はどうなのだろうか、とベルグソンを研究していた人
に、昔尋ねたことがある。良く分からない、というのが返答だった。
「死」については、いま考えても仕方ないだろう。そのうち死ねば、
死後の世界とはどういうものか、あるのかないのかも分かるので、死
ぬのを待てばよいと、その人は云っていた。

人は必ず死ぬと考えても、私は永遠に生きると考えても、あるいは死
を恐れても、死を心待ちにしても、いずれにせよ、主観的には死は存
在しないし、死の境界は何時かは知れないが、やがて通過している。

こころを安らかに持つことしかないであろうと思う。
これを、2018年のはじまりのメロデスとして記す。


_ ノイス・フォン・ストラファーン

 

明けまして、おめでたいかなあ?

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2018年 1月 1日(月)08時05分48秒
返信・引用
  正月は 地獄の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

 まあ、本人がおめでたいから、いいんですけどね。

http://haruoni.seesaa.net/

 

2018年、新しい年に幸いを

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月31日(日)23時28分59秒
返信・引用
 
時間の経過は、一見あまりにも速く過ぎ去るように思える。
しかし、生きて来た時間の、そのときどきのことを回想する
と、人生の時間は決して、「飛ぶ矢」のように過ぎ去って行
く訳ではない。

私たちは、時間のなかで、一歩一歩の経験や試みを通じて、
内実のある生を生きて来た。世俗的な成功とか成果とかは、
無関係に、実存のありようとして、人は創造的な瞬間瞬間を
経過して生きているので、決して、過ぎ去った時間に、後悔
することが多々あったとしても、それは無意味なことではな
い。逆に、世俗的な成功をいかに積み重ねても、行き着く先
は、古代の伝道者が語ったように、塵なる無である。

しかし、「無」はまったく何もなくなる訳でもない。ただ、
人の魂に応じて、死後は、新しい時間の可能性を開いている
とも言える。

生きていくことの望みや希望は、死の直前にまであり、死を
経過した後でもおそらくあるのだと思う。

新しい年を前にするこのときにあって、不吉なことを書いて
いるような印象もあるかも知れないが、メメント・モリ(死
を忘れるな)は、生きているものの最大の銀言である。

この世の光と闇は、共に、表裏にある。厳粛で神聖なときで
あればこそ、人の実存の姿に思いを致すのが当然でもある。

とまれ、人の定めは様々であっても、いまこのとき、各位に、
新しい年の祝福と幸いのあらむことを冀います。


新たな年を迎えるにおいて、各位にあられましては、「光」
の惠みが、その日々の生にありますように。

2017年の最後の日に、かく記し、
主の祝福をかく冀います。

幸いなるかな心貧しき者、
天の国は爾らのものであろう。


南山鳥27 et ノイス・フォン・ストラファーン
a 23:20 en decembre, 2017

_ khaire

 

皆様、酔い落としを

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月31日(日)16時52分11秒
返信・引用
  結局、こうなります。暇つぶしに無関係の画像など。
ゴムカタパルトで発射して、高速時には風圧で閉じている → が、上空で開いて、背中の「ばんぱくくん」を射出する予定でしたが、発射直後に射出されて、計画は失敗。

http://haruoni.seesaa.net/

 

Re: みみっちいけれど

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月27日(水)19時10分11秒
返信・引用
  > No.203[元記事へ]


それは朗報ですね。
1週間前に聞いたときとは、2倍から2.5倍増えている。
問題は、今後この勢いがどうなるのか。更に、宣伝効果で、
売り上げが上昇するのか、下降するのかですね。

ロングテイル・ビジネスだったのが、最近は、何でも百貨店
みたいになってきたアマゾンジャングルですが、ロングテイ
ルは、何万冊、何十万冊の書籍についてのビジネス・スタイ
ルで、キンドル・セラーにも、このロングテイルが有効かど
うか、不明。

多様な領域の書籍を扱えば、ロングテイル・ビジネスは成立
するが、ポルノ・キンドルだと、客層がある程度決まってい
る。つまり、ある程度の時間で、客層・ターゲットは、品物
にはほぼチェックが終わる。さらには、新規投入であるが、
十、二十とは、なかなかに投入できない。

ということで、今後どうなるかですね。

_ mrd


> ブログで金額まで書くと恥晒しなので、ここでコソッと。
> ちょっと、現在の業容をまとめてみます。
> KINDLE 単行本 5千円 KENPC 1万円
> DLsite 3千円~5千円
> D M M  2千円
> 楽天KOBO 1千円(?)
> BOOTH  2千円(?)
> (?)はデコボコが大きいし累積データが無いので推測値。
>  でも、BOOTHで、開店1週間で2点、1188円の売り上げ発生は事実。
>  楽天はロイヤリティ70%、BOOTHは90%以上なので、先が楽しみかも。
>
>  つまりは、月商2万円~2.5万円。
> 『DLして!』を書いてた頃から見るとひと桁成長してます。
>  でも、まあ。あとひと桁は無理ですね。といいつつ、内心……?
 

みみっちいけれど

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月27日(水)15時54分19秒
返信・引用
  ブログで金額まで書くと恥晒しなので、ここでコソッと。
ちょっと、現在の業容をまとめてみます。
KINDLE 単行本 5千円 KENPC 1万円
DLsite 3千円~5千円
D M M  2千円
楽天KOBO 1千円(?)
BOOTH  2千円(?)
(?)はデコボコが大きいし累積データが無いので推測値。
 でも、BOOTHで、開店1週間で2点、1188円の売り上げ発生は事実。
 楽天はロイヤリティ70%、BOOTHは90%以上なので、先が楽しみかも。

 つまりは、月商2万円~2.5万円。
『DLして!』を書いてた頃から見るとひと桁成長してます。
 でも、まあ。あとひと桁は無理ですね。といいつつ、内心……?
 

ダースベイダー!

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月22日(金)06時16分57秒
返信・引用
  ではないです。
駐車場とか工事現場で誘導してるオジイチャンとかです。
PIXIVは電子書籍の表紙絵とか。
https://www.pixiv.net/member.php?id=29042999
これでうまくいかんかったら、R18指定して濠門長恭をユーザー検索するよろし。

http://haruoni.seesaa.net/

 

Re: 遥けくも来たものかは

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月21日(木)23時08分23秒
返信・引用
  > No.200[元記事へ]


以前に聞いた処では、光る服をまとい、暗闇のなか、ライトサーベルのような棒を
振る仕事があるとか云っていたが。「スターウォーズ」の世界ではないかとも思っ
たが、何であったのか。

ハードロープ・ファクトリのリンク集の先を少し見に行くと、過激というか、何を
考えているのだろうかというサイトやブログが多い。

線路は続くよ、どこまでも、ではないが、まだまだ先が長い。わたし自身は、そん
なに先がないが。

今日、もう起きようと思い、部屋が寒いので、エアコンをリモコンで入れて、布団
のなかで部屋が暖まるのを待っていると、電話の呼び出し音があったが、布団から
出るのも面倒なので無視した。だいぶ鳴り続けていて、そのうちやんだ。もし重要
な電話なら、またかかって来るはずであるという前提であるが、そうではないかも
知れない。

>  PIXIVで大化けは(PIXIV→硬式ブログ→電子書籍お買い上げ)……無理だろうなあ。

PIXIVに何の投稿をしているのだろうか。
年末のせいか、色々と慌ただしいと思う最近の日々である。

_ mrd



 

遥けくも来たものかは

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月21日(木)21時05分30秒
返信・引用
   5月にDLSsiteデビューして。夏からはKINDLE拡張して。10月にはKDPセレクト本気投入して。ついにはPXIVまで絵を貼って。
 これまでの四半世紀に溜めたパワーを全開投入。
 で、月額1万かそこらじゃ、まあ、それが拙の実力かと。
 しかし、まだまだ。即時実戦モードのPLOTだけでも半ダース(すこし鯖読み)。
 来年1月は、まだ月給盗りで、すこしは仕事もするけれど。2月3月は40日の有給消化で全休で。4月からは就職活動とか。まあ、CAD関係で時給1500円なら、いけるかな。でも1日8時間+通勤時間。
 2月3月にストック書いて、せめて月額2万円の足場は築いておきたいものです。
 PIXIVで大化けは(PIXIV→硬式ブログ→電子書籍お買い上げ)……無理だろうなあ。

http://haruoni.seesaa.net/

 

永遠の予感か現実逃避か

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月19日(火)09時57分42秒
返信・引用
 
ロバート・ネイサンという作家がいる。いまはどうなっているのか
知らないが、第一次大戦後、1930年頃から1950年頃まで活躍した作
家で、『ジェニーの肖像』という、ある意味で超現実的なファンタ
ジーの中編を書いている。

昨日、何十年ぶりかで、この作品を再読し終わったが、短い作品で
あるが、考えることが多かった。記憶にある物語とかなり違ってい
たように思ったが、おそらく印象深い部分が記憶に残っていたのだ
と思う。

後半最後の三分の二ぐらいは、特に何か激しい出来事の変化が起こ
るわけではなく、季節の移り変わりに伴う、一種の細密な情景描写
で、話がたんたんと進んで行く。こういう進行部分を、すっかり忘
却していた。

昨日に読み終えてみて思うのは、この淡々として、しかし自然描写
や情景描写で密度のある記述が、作品世界のリアリズムを構成して
いると共に、超現実的ファンタジー世界を支えているのだとも思っ
た。

近年というか、ここ十年、二十年のライトノベルなどの台頭は、超
自然的世界や異次元などが、あたかも日常的にそこにあるかのよう
に、簡単に出現するというか、この現実とほとんど連続して、異次
元世界とかファンタジー世界が現出するが、どうも、これは、「現
在という時代の現実逃避世界」のようにもふと思える。

『ジェニーの肖像』の後半三分の二ぐらいを占めている、季節感と
自然感豊かな情景描写的な記述は、むしろ望ましく思えた。わたし
にこういう描写が書けるかというと、かなり準備すれば書けると思
うが、難しいとも思う。しかし、これを読んで、物語の展開で、ゆ
るやかな情景描写は、世界の姿を描くにおいて、重要な意味を持つ
ようにも思えた。

ネイサンというのは、アメリカ人作家だとも感じた。フォークナー
を先に言及したが、レイ・ブラッドベリのファンタジー世界という
のは、アメリカ文学の伝統の上にあるわけで、わたし自身はブラッ
ドベリに、それほどの重さを感じない。というのは、ブラッドベリ
の世界の背景に、アメリカ文学のファンタジーあるいはリアリズム
と現実逃避の文学伝統が反映しているように思えるからである。

ブラッドベリを礼賛している人がいたように思うが、文学的な世界
の広がりのなかでブラッドベリを見るのではなく、自己に引き寄せ
て見るため、視野が狭窄しているような印象もある。

ファンタジーや幻想の世界は、もっと深い世界認識や実存了解の位
相を持っている。そういったことは、どのように多くの人々は考え
ているのだろうか。

服部誕の詩集を読んで、非常に感銘を受けたというか、考えさせら
れることがあった。作者に謹呈御礼の言葉も述べていないが、何か
の評論文で取り上げようと思っている。人の心の奥深さというのは
分からない。分からないが故に、奥深い印象があるのかも知れない。

他の人の心が何であるのか、それは、どこかで記録されているであ
ろう。深さの質が異なるのだとも思えるが、分からないとも言える。
わたし自身は、ファンタジーというのか、現実のなかにある、超現
実的な幻想の真実を描写を通じて描くことができればとも思う。

_ mrd

 

M27 Full Power Boost MAX!

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月16日(土)20時27分2秒
返信・引用
  ですねえ。
往年の腕力が甦った。というか?
拙は
こないな冗長に(責めシーンでもないのに)書いてって、はたして読者がついてきてくれるんだろうかと――今さらながらにようやく、そういうことを意識し始めたとこです。
リリースして、楽々2ケタ行ったり、数冊で頭打ちしたり。ことに、KENPCは作品ごとの凸凹が激しい。

http://haruoni.seesaa.net/

 

現実かフィクションか

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月16日(土)19時41分47秒
返信・引用
 
或る作品を書いたが、それについて、どう考えればよいのか、迷うことが
ある。一応終わりまで書いたとき、生涯において、最上の作品(短編)だ
と思った。この方向性で、今後も書き続ければ、もっと自分で評価できる
より良い作品が書ける可能性があるが、これまで書いて来たものを思い起
こすと、この作品は最上である。バランス的に(物語の進行や、記述の密
度等、色々な面で)うまく構成されていて、作品が完結している(実は、
何が完結しているのか、従来の「物語」の基準では、よく分からない。完
結していないようにも見えるし、最後の場面は一体何なのか、幻想だとい
うことは分かるが、では、どこから物語内部の「現実」のできごとの進行
が、幻想か幻覚か、想像が何か分からないものに変化したのか)。

この境界がはっきりしない。小説世界には、話の現実世界が設定されてい
て、奇蹟とか超現実が起こるわけではないが、どこかで超現実が起こって
いる。最後の部分が明らかに、現実ではない。しかし、現実でもある。ど
こまでが現実なのか、よく分からないのである。

また、最後の場面というか、章に該当するまとまりの部分では、それまで
の記述とのあいだに飛躍がある。「ある情報」がなければ、こういう話に
進まないが、その「情報」を入手した経緯が作品のなかに書かれていない。
というか、書くつもりでいたが、書く必要はないと考えた。小説の中で、
何もかも説明する必要はないのだと思った。

現実の世界の事象では、実は、こういう事態が普通である。人は世界や環
境や状況について、すべての情報を持っている訳ではない。従って、「あ
る情報」がないと、あるできごとの経過が合理的によく分からない場合で
も、現実世界では、できごとだけが進行して、何故そうなったのか、分か
らないことが数限りなくある。それを考えると、小説のなかで、作者が万
能者の立場で、すべてを説明する必要はないのではないかと考えた。つま
り、作品内の出来事で、何なのかよく分からないことが生起しても、寧ろ
これは現実世界では普通のことだということである。

------

このようなことを考えて書いたとも云え、書いてから、このことに気付い
たとも、考えたとも云える。そうすると、これまで書いて来た話が、すべ
て作り物でしかないと思えた。

一般の小説作品などについて、こういう区別が立てられるのかどうか分か
らない。

作者がその生きている現実のなかで出逢った人を、作品のモデルとして描
いている場合。他方、作者が、書いた作品に出てくる登場人物は、現実の
世界には、どこにもモデルがない場合。(こう云う形に述べたのは、唐突
であるが、ウィリアム・フォークナーの作品を考えて、彼の作品の登場人
物は、フォークナーが実際の現実世界で出逢った人物をモデルにしている
のだろうと思って、他方、わたしの話の登場人物は、根本的に、この世界
に存在した誰かをモデルにしているのではない、と感じたことから来てい
る。そもそもわたしが書いて来た作品の登場人物には、現実のモデルがい
ない。モデルがあったとしても、作中登場人物は別個の存在である。……
と、あまりこういう問題についての自己の考察を書いていると、些か問題
なことが起こってくるので、ここでやめるが。疑問が解けた訳ではない)。

そもそも、解けるような疑問なのか。

_ mrd

 

日本の文化と西欧キリスト教文化

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月14日(木)00時07分14秒
返信・引用
 
ところで、先に引用した、若瑪メルは、元々の書き出しの考え
では、小松の作品の「なにゆえか、父よ」というときの「父」
は、超越性とか、超越精神的な「父」ではなく、具体的な「父
親」のことになっている。

作中の超精神アイは、そうか、二人は親子だったのだと呟く。
自分に取り込んだ二つのサブ精神が、肉体的には親子だったと
気付くという話です。

「なにゆえか、父よ」と叫ぶと、その父が答える。
これは、いかにも日本の文化の思想的発想だし、マルクシズム
の影響または、そういう時代の思想背景が感じられる。

それに対し、こういう問いかけの元とも言える、西欧キリスト
教文化や、古代ギリシア哲学やユダヤ教の神などでは、「父」
は答えない。あるいは、答えるが、それは、もっと異質な思想
が背景にある。

ここから、小松左京氏と云う作家の、時代的制約あるいは、時
代精神が垣間見える、というような話を書こうとしていたが、
遠藤周作の「沈黙する神」とか、その元のキリスト教文化の超
越者概念、神の不在における実存主義……などと考えて行くと、
次々に、時代や思想のオリジンが過去に遡って行ったというの
が、先の文書の破綻の原因です。

そういうことまで踏み込む必要はなかった。もっと簡単な図式
で、問いに答える父と、答えない父、とかいう程度の話にして
おくべきだった。

_ mrd
 

Re: なにゆえかーわしは知らんと神のたまふ

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月13日(水)23時44分37秒
返信・引用
  > No.194[元記事へ]


昨日、濠悶氏への返信として、色々書いていると、訳の分からない文書になって
来たので、それは投稿をやめた(というか、掲示板で、気楽に返信として書ける
ような内容ではない)。

途中までを以下にコピーして記します。

インドのウパニシャッド哲学だとか、釈迦仏陀の悟りだとか書いて、この後、ソ
クラテスが何で、プラトンがどうで、イスラエリの預言者あれこれ、初期キリス
ト教の考えでは、ヘレニズムの知的混沌がどうとか、グノーシスの開示は何であ
るとか書いていると、まじで、和気若メールになってきた。(「なにゆえか、父
よ」というのは、西欧やオリエント、インドやペルシアの哲学や思想、宗教で、
3千年以上前から議論されていて、かなり普遍的であり、また複雑な意味がある
ということを書いていたのです。複雑さのなかに踏み込んでしまったので、収拾
がつかなくなった。独立した「説明文・簡易論文」として組み立てないと、こう
いう話は説明できない)。

と、そういうことで。

------------------------------------------------------
------------------------------------------------------

> 小松左京が出てきましたね。
> そんな印象です。詳解省略。

小松左京氏というより、「なにゆえか?」というのは、実存主義の端的
な実存への問いの言葉で、小松のオリジナルではないです。SFファン
は多分、発想や教養が素朴なので、小松左京とかが出てくるのだと思い
ます。ただし、『果てしなき』を青年期に読んで、それなりに感動を覚
えると、この話の最後のシーンと共に、この言葉が印象付けられてしま
うとも言える。

もともと、西欧の哲学・思想の歴史では、かなり一般的な問いの言葉で、
「父よ、なにゆえか」と書くと、小松左京の作品のラストが出てくる人
がいるとは思うが、他方、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの『マタイ
受難曲』の最後のあたりで、十字架上のイエズスが、「エリ・エリ、レ
マ・サバクタニ」と叫ぶのですが、これを、福音書記者が、ドイツ語で
「mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen? 」とレチタ
ティーヴォでうたう。「わが神、わが神、なにゆえ、われを見捨て給う
や?」というような意味で、これは、『マタイ福音書』の該当箇所に、
アラム語かヘブライ語の音写が出て来て、その意味の解説で、コイネー
ギリシア語で、「テエ・ムウ・テエ・ムウ(わが神、わが神)」という
形で、意味が出てくる。これをドイツ語に訳したのが上の句で、イエズ
スは別の場所では、「テエ・ムウ(わが神)」を、「アッバ・パテール
(アッバ、父よ)」とも呼ぶので、「わが神=わが父」と同じで、「父
よ、なにゆえわたしを見捨てられるのか?」というのは、小松左京が書
くずっと前から、こういう言葉は存在していた。

「なにゆえか?」というのは、ハイデッガーの文脈だと、多分、「被投
性」の根拠への問いかけの言葉になる。「被投性」というのは、我々現
存在は、我々として意識を自覚すると、何故か「この世界に投げ込まれ
ていた」、しかし「それはなにゆえか?」という問いを含む。
古代のグノーシス主義において、「被投性」という言葉は無論使わない
が、「何故、わたしを、この悪の宇宙に投げ込んだのか?」という問い
は存在した。というか、この痛切な認識がグノーシスへの覚醒の契機と
してある。

現存在のありようについて、「なにゆえか」と問いかけるのがグノーシ
ス主義で、現代の実存主義も、同じ発想の上にあるので、現代の実存主
義は、近代的装いを持つ現代のグノーシス思想だとも言える面を持つ。

ところで、現存在の存在根拠を尋ねると、実存の問いになるが、存在の
存在根拠を尋ねると、形而上学になる。
この現存在の根拠と、存在世界の存在根拠の問いは、哲学や思想の普遍
的な主題で、古代ギリシア哲学も、これらの問いに始まり、これらの問
いの答えの探求で終始する。イスラエリの預言者達の思索も同じような
問題を唯一神を前提に問いかけ、『ヴェーダ』の思索も、この問いを尋
ね、ウパニシャッド哲学は、問いに対する答えを森の奥で教えてやると
云う哲学文書です。ブラフマ文献も、サーンキヤ思想も、シャーキャ仏
陀の探求も、マハーヴィーラの修行も、これらの問いに対する答えを求
めている。

…………

------------------------------------------------------
------------------------------------------------------

というような感じです。

_

 

↓最後の最後で

 投稿者:濠門長恭  投稿日:2017年12月12日(火)19時50分36秒
返信・引用
  小松左京が出てきましたね。
そんな印象です。詳解省略。
ある意味。拙が不例会掲示板にカキコた心境に通底る?

http://haruoni.seesaa.net/

 

ジェンキンス氏の逝去

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月12日(火)15時02分33秒
返信・引用 編集済
 
元アメリカ軍軍曹で、北朝鮮に逃亡、北朝鮮の支配下にあったが、
偶々結婚した相手が、日本人拉致被害者であった為、家族を含めて
の日本政府の救済政策で、日本へと移住していたチャールズ・ジェ
ンキンス氏が、昨日11日に逝去した。

小柄な身体で、これで米国軍曹が務まるのかとも思えるような印象
だったが、世渡りの技術が良い意味で巧みであったようにも思える。

北朝鮮が、日本人拉致をみずから認め、拉致被害者が家族を含めて
日本に帰国する前、インターネット上に、ジェンキンス氏の親族が
造ったと思われる、「ジェンキンスは逃亡したのではない、北朝鮮
に拉致されたのだ」と訴えるサイトがあったことを思い出す。ジェ
ンキンスは、米国の反逆者ではなく、愛国者であったと云うことが
強調されていた。(補足:当然、英語のサイトで、星条旗のはため
く画像などがあった。一頁のサイトだったように記憶する)。

そのサイトも消え去って十年以上が経過する。

ジェンキンス元米軍曹の死因は致死性不整脈であったとされるが、
朝鮮半島情勢が現実的に緊急性を増してきた現在に、北朝鮮と深い
関わり合いがあった人物の逝去に接すると、人間の明日、あるいは
人類の明日は、本当にどこに向かうのか分からないという思いに捕
らわれる。

何か象徴的な意味があるようにも思える。

-----

ジェンキンス氏の逝去とは別に、数日前と云うより、もう少し前に、
フォークミュージシャンのはしだのりひこ氏の逝去があったが、そ
れほど強い印象もなかった。故人には哀悼を述べたいが、「フォー
ク・クルセダーズ」とは、「日本のフォークシーンを救う十字軍」
というような含意があったことを考えると、「十字軍」とはいかな
るものか、西欧中心ではない視点から見た、色々な評価や歴史的事
実から、寧ろ、わたし個人は、否定的な印象を、後に抱いた。

はしだ以外の二人のメンバーについても、当時、フォークソング界
でヒット作を生み出していたが、何を馬鹿なことを歌っているのか
という印象が残っている。
本心で、うたっているようなことを考えてはいないであろう。金儲
けや自己讃美のためには、メディアも含めて、偽善や欺瞞を平気で
行うのだという印象があったが、いまそれを述べるに、僭越とは言
えないであろうと思う。

-----

チャールズ・ジェンキンス元米軍曹の波乱の生涯に敬意を表し、そ
の死に哀悼を述べる。歴史や文明の激動の現実に、思いが至る。

故光瀬龍氏ではないが、人類という種も、その社会や文明も、やが
ては滅びるのである。それも「宿命である」ではなく、わたしはな
お寧ろ、「なにゆえか」という問いを思う。人間の存在も含め、宇
宙の存在に対し、「なにゆえか」と尋ねる言葉が出てくる。

_ mrd

 

朝鮮半島は今まさに危機状態にあると思う

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月12日(火)01時20分27秒
返信・引用
 
政治的意見とかではなく、国際政治や軍事の現実問題として、
朝鮮半島問題は、きわめて危険な様相になっている。

北朝鮮は、いまや日本列島までなら発射着弾可能なミサイル技
術を備えていて、しかも、生物兵器、化学兵器、原子兵器も所
有しているように思える。

朝鮮戦争の再発というか、休戦状態になっていたので、再開と
いうことになるが、これが起こる蓋然性がかなり高い。

米軍主体の国連軍と北朝鮮軍の戦いになるが、中国人民軍とか、
韓国軍も混じってきて、先が見えない。ただし、国連軍の基地
は日本列島の米軍基地のなかにあり、北朝鮮が、まず先制攻撃
なり、報復攻撃なりをするとすると、日本列島に向けてミサイ
ルを飛ばしたり、工作員による、疫病の散布とか、テロとか、
化学兵器攻撃とか、ろくでもないことが起こる。

難民問題も起こり、これもたいへんなことになる可能性が高い。
まずミサイル攻撃は、米軍基地のある横田とか横須賀などに行
われるが、東京以外の大都市も危ない。京都なども、太平洋戦
争で、米軍は破壊しなかったが、北朝鮮、中国、韓国は何をす
るか分からない。

今回の朝鮮戦争再勃発では、誰が敵なのかがよく分からないと
いうのも問題になる。ロシアも関係してくるし、日本は、亡国
の危機に実際にある。

この状況、今回は何とか危機を回避できることになっても、将
来的に、問題はなお残る。

どうするのか。亡国の日本の現状を容認するのか。考えねばな
らないし、行動も必要であろう。

わたし自身は、攻撃によって「即死」とかだと、それでいいと
も思っている。生物兵器・天然痘とか、神経ガスで苦しみなが
ら死ぬとか、そういう苦痛や苦しみのある死に方でないなら、
死もまた、回避できないものであろう。

_ mrd

 

Re: ↓お大事に

 投稿者:南山鳥27  投稿日:2017年12月12日(火)00時58分37秒
返信・引用
  > No.190[元記事へ]


ありがとうございます。

風邪を引くと、大体、吉野家の牛丼を食べて眠ることが多いです。
これが結構効果がある。牛丼に効果があるのか、別の理由か、定か
には不明であるが。

ところで、何で「吉野家の牛丼」なのか。
理由は、たぶん、簡単なことだと思います。
昼間に、どこかで外食した後、眠ろうとか考えると、選択肢が色々
とある。選択が色々あるということは、あまり印象に残らない。

しかし、夜中の12時とか、午前2時とかに、どこかで食べた後、
眠ろうと考えると、そんな時間に営業している店は、わたしの近辺
では、吉野家しかない。

真夜中の2時、あるいは明け方の4時、5時に、何か食べに行くと
いうと、やはり吉野家の牛丼になる。ということで、印象が強く残っ
ているのだと思う。

ちなみに、前回の書き込みの後も、吉野家の牛丼を食べに行って、
還ってから、眠ると、12時間か、ともかく普段になく、よく眠っ
た。風邪の方はどうも一段落したようであるが、(まだまだ油断で
きないが)、呼吸困難のような症状はまだ残っているし、つくづく、
年齢を考えるということです。
この数年、とくに年老いたと感じる。

_ mrd
 

レンタル掲示板
/9